日本の株式市場でM&A(企業の合併・買収)が着実に増加している中で、経済産業省が「M&Aに関する行動指針」の捕捉文書の策定に乗り出した。この行動指針は同省が2023年8月にまとめたもので、株式公開買い付け(TOB)などの買収提案を受けた場合、対象企業が取り組むべき対応策などを定めた。指針に法的な拘束力はないものの、買収を提案された企業には社外取締役で構成する特別委員会などで「真摯な検討」を促している。買収を提案された企業の経営陣が自らの保身のためにむやみに提案を拒否しないように求めた内容である。
しかし、経産省がまとめたこの行動指針では、株主利益の拡大や株主還元ばかりに注目が集まり、高い買収価格さえ提示すれば株主利益に合致し、それが望ましい買収であるかのような受け止めも広がっているのが実態である。同省がこの指針に合わせ、従来の敵対的な買収を「同意なき買収」と呼称変更したこともあり、「経産省が同意なき買収を促している」との見方さえ浮上している状況になっている。
こうした事態を受け、同省は行動指針をまとめた「公正な買収の在り方に関する研究会」を今年2月に再開。買収価格に偏重して買収受け入れの賛否を決める風潮が強まっている株式市場に警告を発し、M&Aの受け入れを検討する基本原則の見直しを求めることにした。同省では今後、事業会社や投資ファンドなどの関係者にヒアリングを行いながら、指針を補完する形で今年5月にも補足資料やQ&A資料などの補足文書を策定する構えだ。株主利益を過度に追求するのではなく、あくまでも中長期的な企業価値の向上につながるM&Aを広げたい考えだ。
再開された研究会では、M&Aに関する行動指針が企業買収の際に多くの実務家らに参照され、一定の影響力があったと評価した。企業買収の件数も25年は6,259件と2年連続で過去最多を記録。特に買収金額については、日本企業による海外企業の買収が円安下ながらも増えたことで、40兆7900億円と初めて40兆円の大台に達した。こうしたM&Aの活発化に伴い、M&Aに関する行動指針に対する産業界の注目度も高まっていると分析している。M&Aの中にはMBO(経営陣による自社買収)も含まれているが、これは東京証券取引所が上場企業に対し、資本コスト経営の徹底を求めたことも影響したと見られている。
ただ、その一方で産業界からは「高い買収価格を提示すれば、それは株主にとって望ましい買収であり、買収提案を受けた企業は必ず提案を受け入れなければならないのか」との問い合わせも経産省に多数寄せられているという。このため、同省では「行動指針の趣旨や目的が正しく理解されていない可能性がある」と懸念を表明。このため、企業買収などのM&Aに関して改めて関係者の意識調査を実施し、中長期的な企業価値の向上に資するように行動指針の周知徹底を図ることの重要性も確認された。
最近のM&Aでは、相手先の経営陣の同意を得ずに実施する「同意なき買収」も増えている。かつては敵対的な買収と呼ばれていたが、「あまりにも後ろ向きの表現過ぎるのではないか」(経産省幹部)として、同意なき買収と変更された経緯がある。25年の同意なき買収は8件あったが、買収が成立したのは4件にとどまった。また、ここ数年では当初の買収提案に対し、他社が対抗的に買収を提案する競合事例も増えている。企業買収を巡って競合相手が登場することで、結果的に買収価格がつり上げられるケースも増えており、それがM&Aによる買収金額が上昇する一因にもなっている。
もともと行動指針では企業が買収提案を受け、その内容を検討する際には「企業価値ひいては株主共同の利益を確保し、または向上させるか」を最も重視すべき判断基準として明記している。1株当たりの買収価格を高値に設定することは株主にとって重要な項目だが、株式市場では「高い買収価格=望ましい買収」との平面的な解釈が広がっている側面もあることも事実だろう。高い買収価格は株主にとって短期的な利益の拡大につながる半面、買収された企業がその後、設備投資や研究開発などで適切な成長投資を実施せず、事業の切り売りやリストラで優秀な人材の流出が進むことになれば結局、企業価値は損なわれて国際競争力も失われてしまう。
過去に大型M&Aを経験した大手企業の経営幹部は「行動指針では買収を提案された企業の取締役が適正な判断を下さなければ、善管注意義務に抵触する恐れも指摘されている。このため、善管注意義務違反を恐れた取締役会が、高い価格を提示した買収提案に安易に応じる可能性が高まっている」と明かす。これに対し、経産省幹部は「行動指針は企業にとってのベストプラクティス(最良の実践)を求めているが、プラクティスそのものの形は多様だ。何が企業にとってベストプラクティスかを決めるのも、買収提案を受けた企業の取締役会が主体的に判断すべきだ」と強調する。その上でこの幹部は「買収提案が幅広い観点で検討され、必ずしも最も高い価格を提示した買収提案に応じなくても、それで善管注意義務違反に問われることはない」と解説する。こうした株式市場で広がる誤った認識の解消を図るため、経産省は行動指針の補足文書をまとめる。
経産省がもう1つ、最近の株式市場の動きで懸念している点がある。それは上場企業が自社の株式を買い戻す自社株買いの急増だ。東証の全市場を対象にした取引主体別の株式売買を見ると、25年は国内の事業法人の買い付けが売却を大幅に上回り、10兆4477兆8841億円の買い越しを記録した。これは前年の水準から3割ほど増えている。自社株買いを実施すると、市場に流通する自社株が減少して1株あたりの利益が増える。自己資本が減って自己資本利益率(ROE)が改善するため、投資家の評価も高まって株価の上昇につながりやすい。
自社株買いは株主還元の一種と受け止められているが、最近では経産省内でも短期的な株価引き上げよりも中長期的に企業価値を向上させ、株価の上昇につなげるべきだとの見方が強まっている。特に同省は企業に成長市場に対する積極的な投資を進めることで、中長期的に企業価値を高める取り組みに注目している。行き過ぎた株主還元は目先の株価対策に過ぎず、企業を成長させるエンジン役は果たせないことに留意が必要だ。
井伊重之Shigeyuki Ii
経済ジャーナリスト、産経新聞客員論説委員
コーポレートガバナンスに関する論考多数。政府の審議会委員なども歴任。