リナ・カーンの戦い

2022年3月10日

菊地麻緒子(株式会社コンパス 代表取締役)

[ 雑誌「コーポレートガバナンス」Vol.8 - 2021年12月号 掲載 ]

競争はイノベーションと幸福をもたらすか

FTC vs. Facebook

2021年8月19日、米国の競争法当局 Federal Trade Commission(FTC)は、コロンビア特別連邦地方裁判所に対し、Facebookの反トラスト法(独占禁止法)違反について再度の提訴を行った。FTCは、2020年12月9日、Facebookが将来競合する恐れのある新興企業を排除するため、2012年にInstagramを10億ドルで、2014年にWhatsAPPを190億ドルで買収するなどにより、インターネット交流サイト(SNS)市場における競争を阻害したとして、InstagramやWhatsAPPの売却を含む是正措置を求め、反トラスト法違反の訴えを提起した。本年6月28日、同地裁はSNS市場におけるFacebookの独占的地位に関する立証が不十分としてFTCの訴えを棄却したが、8月19日までに修正し再度提訴することを認めた。FTCは、前回より30頁余り長い新たな訴状を提出し、Facebookに対する徹底抗戦の姿勢を示した。

FTCを率いるのは、6月15日、バイデン大統領により委員長に任命された米国競争法学会の新星、32歳のLina Khan氏である。Khan氏は、1989年ロンドンでパキスタン人の両親のもとに生まれ、11歳の時に両親とともに米国に移住した。2017年のYale Law School学生時代の論文"Amazon's Antitrust Paradox"によって一躍脚光を浴びた。彼女は、シカゴ学派が主張する効率性と価格に焦点を当てる競争法理論では、Amazonのような巨大プラットフォーマーを規制できず、競争が減殺され、イノベーションを阻害すると主張した。

Khan氏とともに米国競争政策の舵を取るのが、Tim Wu氏である。Wu氏は、1972年台湾独立運動家の父とカナダの移民で免疫学者の母との間に生まれた。2003年の論文でネットワーク中立性を主張し、また、シカゴ学派により眠りについた反独占思想の再興に取り組み、2021年3月、技術及び競争政策に関する大統領特別補佐として、ホワイトハウスのアドバイザー・グループNational Economic Council (NEC)のメンバーに指名された。Wu氏は2018年に出版した「巨大企業の呪い」(The Curse of Bigness)で、ネオリベラリズム下での独占の放任がいかに格差を生み、社会を分断し、民主主義を危機に陥れたかを説き、合併審査の見直しなど競争法活用に関する提言を示した。独占に対する厳格な法規制の必要性を主張するWu氏やKhan氏らの思想は、新ブランダイス学派と呼ばれている。

産業のグローバル化と競争政策

市場における反独占の思想は古代ローマに遡る。1602年には、英国エリザベス女王が侍従に授けたトランプカードの製造販売の独占を認める特許状が、裁判所によりコモン・ローに反し無効とされた。1773年のボストン茶会事件、英国が東インド会社に認めた植民地での茶の独占販売権に対する抵抗は、米国独立戦争につながった。トマス・ジェファーソンなど建国の祖は、民主主義の基本である自由主義、平等主義、分権主義を維持するためには、政治のみならず経済を含む権力の集中回避が必須と考えた。

新ブランダイス学派のルーツであるLouis Brandeis氏は、プラハからの移民の両親のもと、1856年にケンタッキー州ルイズビルに生まれ、古き良きアメリカの民主的コミュニテイーの中で育った。そこには数千人の従業員を雇用する大工場は無く、多くの小規模な経営者とそこで働く家族のような従業員が、自らの仕事と生活に夢と誇りを持って生きていた。しかし、急激な産業の発展とともに独占的大企業が経済を支配し始めた。1879年、約40社の石油会社の株式がロックフェラーなど少数の受託者に委託され、スタンダード石油トラストが結成されたことを皮切りに、企業集中が全米で加速的に進行し、中小企業とそこで働く人々は産業社会にとって非効率な存在とみなされるようになった。Brandeis氏は弁護士としてJ. P. Morgan支配下の鉄道会社による買収案件等に関わり、巨大企業による市場の独占は中小企業を不当に抑圧し市場を歪めるのみならず、労働者の地位を貶め、人権を侵害し、民主主義に反するという反独占の信念を持った。

反独占の思想は、1890年に連邦反トラスト法たるシャーマン法を成立させ、1911年にはスタンダード・オイル社は34の新会社に分割された。1950年代から1970年代の半ばまで、独占や企業結合に対する厳格な法規制を主張するハーバード学派が競争法の主流となり、政府は、1960年代、製鉄、靴製造、銀行など様々な分野で合併を阻止し、1970年代にはAT&TやIBMなど巨大企業の分割に果敢に取り組んだ。しかし、グローバリゼーションが進行し、市場の自由を重視し政府の介入を縮小すべきとするネオリベラリズムが台頭するに従い、1970年代後半には、競争法の世界でも反トラスト法の目的は産業の生産能力の最大化による資源配分の最適化、すなわち、経済の効率化にあるとするシカゴ学派が優勢となり、価格や生産量に関するカルテルは厳しく取り締まる一方、合併、買収などの企業結合や垂直的統合は経済の合理化につながるとして許容する方針がとられた。結果、巨大企業によるM&Aは放任され、世界的な独占企業が生まれ、富と権力が集中されていった。その象徴が、GAFAなどの巨大プラットフォーマーである。

あるべき民主主義社会は

トランプ前大統領の主要な支持者は、ラスト・ベルトと呼ばれる製造業や重工業を中心とする地域に居住し、産業のグローバル化により職を奪われた白人中流階級であったが、彼らは、社会保障により保護されるのではなく、誇りを持って働き、地域社会に貢献する生き方を望んでいた。前大統領は、グローバル企業の代表としてのAMAZONを、地方の小売業を駆逐し、郵便局の仕事を奪うなどと嫌っていたようだが、同政権下で、2020年10月司法省によるGoogle提訴が、また、同年12月冒頭で述べたFTCによるFacebook提訴が行われ、巨大プラットフォーマーとの闘いの幕が落とされた。前大統領の方針は、バイデン政権下でKhan氏やWu氏ら新ブランダイス学派により強力に推進されている。Khan氏はFTC委員長就任の宣誓に当たり、「FTC委員長に任命されたことはたいへんな名誉である。同僚とともに企業の横暴から社会を守るために働くことを楽しみにしている。」と述べた。彼女は、ユニコーンを産み出す開かれた競争環境の整備こそが、米国の成長の源泉であると考えている。

翻って日本はどうか。岸田新政権は規制緩和などの新自由主義政策が国内格差を生んだとして新しい資本主義の在り方を模索し、与野党問わず国富の再分配を主張する。他方、特許出願数やユニコーン企業の少なさなどイノベーション力の弱さ、OECD加盟国37か国中26位という労働生産性の低さ、先進国ではイタリアの約半分という実質GDP成長率など、国際格差にはどう対処していくのか。日本は、一部を除く国民全員で和を以って沈没してゆく船とならないか。

Khan氏はパキスタン出身の30代、Wu氏は台湾系米国人2世の40代。日本もアフガニスタンなどから移民を積極的に受け入れ、1981年生まれの台湾デジタル担当大臣オードリー・タン氏のような若い世代を政治や経済のリーダーとして大胆に登用することを続ければ、20年後にはKhan氏のようなジャンヌダルク、ゲームチェンジャーが現れるのかもしれない。

菊地麻緒子氏

菊地麻緒子Maoko Kikuchi
株式会社コンパス 代表取締役
日本及び米国ニューヨーク州弁護士、MBA。検察庁、日米の法律事務所、公正取引委員会、ソフトバンクモバイル、日本マイクロソフト、三井倉庫ホールデイングスに勤務。現在は社外役員として企業と社会を考えるとともに、ワインによるフレイル予防の勉強会を開催中。

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