現在の日本の株式市場と上場企業の経営は、以下の「三点セット」が要因で大きく変容しつつある:
東証のPBR改善要請は、上場企業の5割以上もがPBR1倍割れの状況だったこともあり、「PBRショック」などとも呼ばれて大きな波紋を広げた。それ以来、相当数の企業がPBR改善策を発表してきているのだが、その多くが株主還元に集中しているのが気になる。もちろん、使い道のない現金を株主に還元し、資本効率を改善していくことは正しい施策だが、PBRの1倍割れの最も根本の原因である、資本コストを下回っている事業の収益性を改善することが本筋だ。
アクティビスト投資家の活動は近年急増しており、上場企業の経営者にとって大きな脅威となっている。アクティビスト投資家は株主還元の増加や低採算の事業の売却など、株価を引き上げるべくさまざまな要求をしてくる。最初は非公開の場での対話であっても、公開書簡を送ったり、株主提案をしたりなどと、公開の場での争いに転換してくる。日本ではアクティビストの株主提案が株主総会で可決される事例はまだ少ないが、機関投資家も議案によってはアクティビストに同調するようになっており、注意をする必要がある。アクティビストに対する対応策は、結局は、バランスシートの整理によるのか、事業の収益性を向上させるのか、のいずれかにより資本効率を上げていくしかない。
2023年の「企業買収における行動指針」は、株主利益の確保を重視しており、同意なき買収にお墨付きを与える結果になっている。実際にこの「指針」案が発表された直後に、ニデックが工作機械メーカーのTAKISAWAに対して「同意」がないまま公開買い付け(TOB)を発表している。TAKISAWAは当初は買収を避けようとしていたようだが、最終的には取締役会もニデックのTOBに賛同を表明しており、「友好的」買収に転換している。TAKISAWAの原田社長も「経済産業省の指針に沿って対応したら、賛同するしか答えはなかった」と述べている通り、この指針の影響は大きかったようだ。ニデックは100%近いプレミアムを載せたTOB価格を提示しているのだが、TOB前のTAKISAWAのPBRが0.5倍程度と安値だったのが、高プレミアムを載せることを可能としている。つまり、株価が安いと同意なき買収のターゲットになってしまう可能性があるようになったのだ。また、セブン&アイ・ホールディングスがカナダの小売り大手のクシュタール(ACT)から同意なき買収を仕掛けられた事例でもわかる通り、大手企業もいつ国内外から買収を仕掛けられるかわからない時代に突入しているのだ。
このように「三点セット」が上場企業の経営者に大きなプレッシャーになっているのだが、これらに対処するには、株主還元を増やすというような短期的な株価対策では不十分で、事業ポートフォリオの刷新や積極的なリスクテーキングによる事業の収益性向上が必須であることを上場企業の経営者は認識する必要がある。
事業ポートフォリオの変革の観点からは、コダックと富士フイルムの対比は興味深い。2000年時点では両社とも収益の3分の2近くを高収益のフィルム事業で稼いでいたが、その後の展開は大きく異なった。コダックは祖業に固執し、フィルム事業の売上が急減し2012年に破綻したが、富士フイルムは医薬事業などの新規事業を多く育てて、果敢に事業ポートフォリオを変容させた結果、昨年は史上最高益と株価の史上最高値を達成している。
古森元会長兼CEOの強いリーダーシップに加え、高収益なフィルム事業から蓄えられた多額の現金と低い配当性向に支えられた強力な財務基盤が新規事業の創出に大きく貢献した。対照的にコダックは当期利益の平均150%という高い配当性向と借金による多額の自社株買いによる脆弱な財務基盤が、多角化を阻害した一つの要因となり、命取りになっている。
日立製作所も2009年3月末の決算で8000億円近くの損失を計上した後、川村、中西、東原という3代の強力なリーダーのもと、果敢なM&Aも活用しながら事業ポートフォリオの大転換を図っているが、その結果が最近の好業績と株価の最高値に繋がっている。ただ、事業ポートフォリオの変革には時間がかかるのであり、両社の事例においても、株式市場にそれが認識されて株価に反映されるまで10年以上かかっている。
「三点セット」の結果、株価を意識し始めた経営者が増えたのは好ましいことで、市場のプレッシャーを感じて、収益性を上げるべく、なかなか実行できなかった事業ポートフォリオの刷新を始めている企業が増えているのは歓迎すべきだ。経営者には市場やアクティビスト投資家の外圧を利用して、変わることを嫌がる社内に危機感を持たせ、変革をリードしていくようなしたたかさも要求される。
一方で、投資家の視点からすると、日立製作所や富士フイルムのように時間がかかっても最終的に結果が出る会社と、「出る、出る」と言っていても変革の成果がいっこうに出ない会社をどう区別するのかが課題だ。企業経営者は、投資家との対話をしっかり行い、どのようなストーリーとロジックで結果が出るのかを説明し、KPIを設定してその達成の途中経過も具体的に示していくことが重要である。機関投資家の裏には年金などの最終的なアセットオーナーがおり、機関投資家はそのオーナーへの説明責任もあるという投資家側の現実も忘れてはならない。
短期志向の投資は企業経営も短期志向化させ、長期的には企業の収益性低下と投資家の運用成績悪化をもたらし、Lose-Lose関係になってしまう。企業経営者は中長期の競争力強化と収益性向上を目指し、投資家はじっくり結果が出るのを待つことで、Win-Win関係を構築することが重要だ。
経営者は変革の必要性を認識し、投資家は長期的な視点で企業価値を評価する姿勢が求められており、両者が協力して、持続可能な成長と価値創造を実現することが、日本企業の競争力強化と株式市場の活性化につながるのだ。
伊藤友則Tomonori Ito
早稲田大学 ビジネス・ファイナンス研究センター 研究員教授
東京大学 経済学部卒業、ハーバード大学経営大学院修士(MBA)。東京銀行を経て、1995年にUBS銀行入社、1998年から2010年までUBS証券会社 投資銀行本部長を務める。数々の民営化案件、IPO、株式の公募増資、大型M&A案件を自ら手掛ける。日本の投資銀行業界において、草分け的インベストメントバンカーとして知られる。2011年に一橋大学大学院国際戦略研究科特任教授、2012年に同教授。2017年に同大学院EMBAプログラムを創設しプログラム・ディレクターに就任。2021年9月より早稲田大学ビジネス・ファイナンス研究センター研究院 教授。電源開発株式会社社外取締役。三井住友海上火災 社外取締役。三井住友トラストグループ 社外取締役。