新型肺炎が突きつける日本型システムの脆弱性─実体経済に影を落とす「パニック心理」

2020年6月10日

井伊重之(産経新聞論説委員)
コーポレートガバナンスに関する論考多数。政府の審議会委員なども歴任。

[ 雑誌「コーポレートガバナンス」2020年4月号 掲載 ]

「天災は忘れた頃にやってくる」の警句で知られる地球物理学者の寺田寅彦は、夏目漱石と深く交流した文学者でもあった。それだけに私たちの心に今も響く科学随筆を数多く執筆している。最近では世界的に猛威を振るう新型コロナウイルスに対し、「正しく怖がる」という重要性が指摘されているが、これも彼が残した格言だ。

実はこの言葉には前段がある。「ものを怖がらなかったり、怖がり過ぎたりするのは簡単だ」という文章の後、「正当に怖がることはなかなか難しい」と続く。これは1935年に浅間山が小噴火した際、当時の世情を描写したものだ。「不満には強いが、不安には弱い」とされる日本人のパニック心理を絶妙に言い当てている。

繰り返された消費者の買い溜め

新型コロナウイルスの集団感染が懸念される北海道地域のマスク不足に伴い、政府は国民生活安定緊急措置法に基づいて民間からマスクを買い取って北海道に送った。同法は1973年の第1次石油危機を受けて制定された。深刻な石油不足に対する懸念が広がった当時、消費者は一斉にトイレットペーパーの買い溜めに走った。こうした事態に備えるために整備したのが同法だ。それから約半世紀が経過しようとする現在、再び店頭からトイレットペーパーが姿を消した。製紙各社は在庫が十分にあるとしているが、折からのマスク不足もあり、その連想で今度も消費者が一斉に買い溜めに走った。日本人のパニック心理は手強い。

第1次石油危機は、73年秋に勃発した第4次中東戦争が契機となった。イスラエルとの戦争に伴ってアラブ諸国が石油価格を大幅に引き上げ、供給途絶をちらつかせて西側諸国に対してアラブに味方するように迫った。これによってパニックに陥った日本では物資不足による狂乱物価が吹き荒れ、高度経済成長は終焉を迎えた。同年の経済成長率は戦後初めてのマイナスを記録したが、後になって振り返ると、日本に輸入される石油は戦争前と変わっていなかった。パニック心理が石油危機の影響をより拡大させ、経済が混乱する事態を招いた。

新型コロナウイルスがいま、日本を大きく揺さぶっている。感染拡大に歯止めがかからず、感染経路が不明な患者が全国で発生するなど、政府が目指した水際作戦は失敗に終わった。今後は肺炎が重症化した患者の命を救うための救命作戦に比重が移るが、国内の医療体制の脆弱性が浮き彫りになった。早急な立て直しが問われている。

綻びを見せるのは医療ばかりではない。不安心理が広がる中で経済・社会システムも揺さぶられている。産業界ではテレワーク(在宅勤務)や時差出勤を始めた。本来なら社員の労働生産性を高める観点から独自に講じておくべき取り組みだが、これを契機にして産業界はもっと真剣にテレワーク導入に向き合う必要がある。時差出勤も同様だが、今は各社が一斉に時差出勤を求めているため、かえって通勤ラッシュが後にずれ込むという珍妙な動きも出ている。

小中高校が前倒しで春休みに突入し、イベントなどの自粛ムードも広がっている。感染拡大の抑制という危機管理でやむを得ない面があるものの、政府関係者は「政府が音頭を取ってくれないとイベントを中止できないという声が多数寄せられている」と明かす。そこからはパニック心理と横並び思考という日本人の複雑な心情が読み取れる。

「正しく怖がる」を覚える

日本は今回も感染症対策で後れを取った。2003年に流行したSARS(重症急性呼吸器症候群)でもそうだったが、国内向けの徹底した感染症対策がないために無用の混乱が広がった。その後、新型インフルエンザが流行したのを受けて政府は感染症対策マニュアルを策定したが、曖昧な部分を多く残したままだったため、今回も水際作戦が機能しなかった。

何より災害発生などの初動にあたる内閣府の防災担当に感染症の専門家がいなかった。内閣官房の内閣危機管理監と官房副長官補のラインは防衛・警察出身者が占めており、入国管理などの初動は完全に出遅れた。首相を本部長とする対策本部が設置されたが、縦割り組織で会議を立ち上げても政府が機能不全に陥る様子は、まるで映画「シン・ゴジラ」を見ているかのようだった。

今回の混乱を踏まえて政府・自民党内には、米国の疾病対策センター(CDC)をモデルにした医療関係の政府組織を創設すべきだという声が上がっている。CDCは感染症などの専門家を集めて常時、世界の感染症に目を光らせており、新型コロナウイルスが中国で発生した際、世界保健機関(WHO)に先駆けて中国全土に対する渡航の警戒レベルを引き上げた。WHOの緊急事態宣言の発令を待つしかなかった日本の初動体制とは、大きな違いを見せた。

対応の遅れは政府ばかりではない。民間で感染症対策を事業継続計画(BCP)に含めていた企業は、全体の2割あまりにすぎない。それも政府の新型インフルエンザ対策に準じており、その実効性は乏しい。政府の対策遅れが民間の対策遅れにつながり、日本として新型コロナウイルスを封じ込める機会を逸したのは残念だ。

こうしたなかで日本経済も深刻な打撃を受ける可能性が高い。昨年10月の消費税増税に対応し、政府は景気対策を講じているが、新たな脅威の発生は景気をさらに強く下押しする要因となる。とくに製造業は中国に依存するサプライチェーン(部品供給網)が寸断される恐れがあり、外出抑制などの動きは広く個人消費にも及ぶ。消費税増税の影響で昨年10~12月期にマイナス成長となった日本経済は、今年1~3月期もマイナスを記録する恐れがある。もし東京五輪が予定通りに開催できない事態になれば、経済への打撃はさらに長引くだろう。

収束が見えない新型コロナウイルスの経済的な影響はまだ不透明だ。世界の感染者がどこまで増えるかもわからない。ただ、日本でパニック心理が広がれば、実体経済に大きなマイナス効果を与えるのは避けられない。それを防ぐには、たとえ難しくても正しく怖がることを覚える必要がある。