2026年7月17日
宮下和昌(IGPI弁護士法人 代表弁護士)
2023年4月に公表した本提言の初版は、我が国のベンチャー・エコシステムの課題を、制度による「裾野(数)の拡大」ではなく、実務の高度化による「高さ(質)の創出」によって克服すべきものと捉えた。そして目指すべき世界観として、ローカル投資家とグローバル投資家の役割分担のもとでG型スタートアップの非連続的成長を実現する「グローカル成長投資モデル」―北欧型のモデルを本歌取りしたゴール―を設定した。その実現手段として、初版は、①G型スタートアップの経営(コーポレートガバナンス)の在り方、②ベンチャー・キャピタルその他投資家に求められる規律、③両者間の投資契約(取引条件・実務)の在り方、という3つの規律を体系的に提示したものである。
初版の問題意識と提言は、その後の政府の政策論議に大きな影響を与えた。金融庁が2024年に策定した「ベンチャー・キャピタルにおいて推奨・期待される事項(VCRHs)」や、経済産業省の「我が国における健全なベンチャー投資に係る契約の主たる留意事項」及びその増補版は、いずれも本提言と方向性を共有し、その下敷きの1つとなっている。実務に根差した提言が政策形成の起点となり得ることを示した点で、初版は一定の役割を果たした。
もっとも、この3年間で、初版が鳴らした警鐘は不幸にして現実のものとなった。事業基盤が十分に整わないまま量産される早期上場(スモールIPO)、上場を境とする成長の停滞、そして会計不正を含む重大な不正事案の続発である。これらは個社の問題にとどまらず、ベンチャー・エコシステム全体の「信認」を毀損する事態を招いた。こうした課題は、起業家の裾野拡大と投資の量的拡大を主眼とする「規制緩和」の延長線上では解決されない。我が国のエコシステムは、いま「規制緩和フェーズ」から「市場規律の確立フェーズ」へと重心を移すべき転換点にある。改訂版は、この認識に立ち、新たな名宛人として「政策当局その他エコシステムの制度設計に関与する者」を加えた。初版が主として起業家・投資家という当事者に向けた実務規律であったのに対し、改訂版は、これに制度・市場環境そのものの設計という次元を重ね合わせた点に、最大の特徴がある。
改訂の基軸としたのが、エコシステムの「競争領域」と「協調領域」の峻別という視座である。"スタートアップの多様性"を無批判に礼賛するのではなく、各プレイヤーが独自性を発揮すべき競争領域(ビジネスモデル・技術・戦略・投資哲学等)と、共通基盤として標準化すべき協調領域(投資契約フォーマット、公正価値評価の実務、ファンドの組成・運営規律、利益相反管理等)とを明確に分ける。協調領域の標準化は独自性を損なうものではない。むしろグローバル・エコシステムと接続されるからこそ、そのスタートアップの独自性が鮮明になる。米国のNVCAモデル契約、ILPA Principles、IPEVガイドラインは、まさにこの協調領域の「共通言語」として機能している。
この視座を制度設計者に向けて具体化したのが、改訂版で新設した「第1制度設計の視点」である。第1に、エコシステムの「質」の評価軸を正すこと。会社数・調達額・バリュエーションといった量的指標への偏重を脱し、スタートアップは事業の質的成長やガバナンスの実効性で、ベンチャー・キャピタルは投資家への資金還元実績(DPI)や公正価値評価の適切性、フォローオン能力、ファンド運営者(GP)の独立性といった実務指標で、総合的に評価されるべきである。第2に、市場の信認確保である。不正会計等への規律を、スタートアップ・監査法人・証券会社という各レイヤーで複層的に確立し、監査法人・証券会社にはゲートキーパーとしての責任ある職務遂行を求める。政策当局は、必要な場合には規制強化を含む制度的措置を躊躇すべきではない。第3に、グローバル専門人材の育成である。経営・オペレーション人材に加え、投資・法務・会計等の専門人材、さらにディープ・テックの技術的価値を最高到達点で見極める人材を、学部・研究科横断型の教育や実務家による育成プログラムを通じて厚くする必要がある。
各論でも、市場規律の観点から重要な提言を追加した。未上場株のセカンダリー市場については、上場前準備プロセスを経ないまま流動性が供給されることの構造的リスクを指摘し、制度設計上の工夫を求めた。ベンチャー・キャピタルに対する監督についても、適格機関投資家等特例業務(届出制)の下では運営の適正性の把握が必ずしも十分でないとして、米国のERA制度等を参照し、届出制から登録制への移行を含む制度的対応の検討を提起している。さらに、事業会社によるM&A組織能力の向上を新たに論じた。「エグジット」は本来株主目線の概念にすぎず、スタートアップ自身にとってIPOもM&Aも「新たなスタートライン」である。事業の「独立価値」と「結合価値」を見極めたうえで、買収後統合(PMI)を含む組織能力を、経営トップ自らが「両利きの経営」の課題として引き受けるべきであるといった提言である。
我が国のベンチャー・エコシステムは、いま「規制緩和」による量的拡大から、「市場規律の確立」による質的高度化へと、その重心を移すべき転換点にある。起業家、ベンチャー・キャピタル、事業会社、監査法人・証券会社といったゲートキーパー、さらには制度設計者に至るまで、各プレイヤーがグローバル・スタンダードに準拠した規律を実装してこそ、協調領域は真の共通基盤となる。それは、家計から成長企業へと至る資金循環、すなわち資産運用立国の礎でもある。本改訂版が、その実現に向けた建設的な議論と実践の出発点となることを、心より願う。
なお、本提言の解説動画をYouTubeで公開している。「我が国のベンチャー・エコシステムの高度化に向けた提言」で検索されたい。
宮下和昌Kazumasa Miyashita
日本取締役協会 会長補佐、株式会社経営共創基盤(IGPI)ジェネラル・カウンセル、IGPI弁護士法人 代表弁護士
ソフトバンクグループの社内弁護士を経てIGPIに参画し、M&A・事業提携、コーポレートガバナンス、スタートアップ支援等、事業と法務を横断するアドバイザリーに従事。日本取締役協会 会長補佐として本提言の策定に携わる。