2026年6月10日
佐藤智恵(伊藤忠エネクス、ハピネット社外取締役)
[ 雑誌「コーポレートガバナンス」Vol.21 - 2026年4月号 掲載 ]
2025年5月、ハーバード大学経営大学院のケース『日本のコーポレートガバナンス改革の10年(2013-2023)』(原題:A Decade of CorporateGovernance Reform in Japan (2013-2023))が出版された。日本のコーポレートガバナンス改革がこれほど大々的にケースにとりあげられたのは初めてのこと。それだけ、この改革の行方が注目されているということだろう。
このケースが浮き彫りにしているのは、「日本のコーポレートガバナンス改革は確実に進展しているものの、国外の人たちからはまだまだ物足りないと思われている現実」。特に問題視されているのは、改革のスピードだ。
なぜ、改革は遅々として進まないのか。ケースを執筆したハーバード大学経営大学院のチャールズ・ワン教授(Charles C. Y. Wang)によれば、その理由は主に2つあるという。
1つは、いまなお「コーポレートガバナンスの要諦はコンプライアンスだ」と誤解している経営者や企業が多いこと。
確かに、日本のメディアで「ガバナンス」という言葉が連呼されるのは、企業の不祥事が大きなニュースになったときばかり。勘違いしてしまうのは無理もないことかもしれない。ところが、コーポレートガバナンスの本来の目的は企業価値の向上。利益率や生産性を高めたりする仕組みをつくることもコーポレートガバナンスなのだが、この視点がぬけもれがちなのだという。
2つめが、低い収益性や低いROE(自己資本利益率)といった問題を「必ず改善しなくてはならない問題」として捉えている経営者や企業が依然として少ないこと。日本の主要上場企業のROEは10.1%。アメリカの30.8%、ヨーロッパの17.5%(2021年金融庁試算)とくらべると低さが目立つのは否めない。
ワン教授は、「執筆前、日本の専門家から『日本の上場企業の10%しか、コーポレートガバナンス改革に真剣に取り組んでいない』と聞いていたが、実際に自身で調査してみて、本当にそうだったことがわかって愕然とした」と話す。つまり残りの90%は「コンプライアンスには対応しなくてはならないが、収益性改善や構造改革についてはそこまでやらなくてよい」と考えているというのだ。
いずれの要因からも、この後れに大きな影響をもたらしているのが、経営者の意識や固定観念であることがよくわかる。
なぜ日本企業の経営者は「低い利益率でも利益さえ出していれば問題ない」と考える傾向にあるのか。
その理由は「会社は誰のものか」についての考え方が、日本人経営者と欧米人経営者との間で異なることにある。
戦後、多くの日本企業は「社員は家族」「企業は社会の公器」という理念のもと、飛躍的な成長を遂げてきた。そのため一般的に日本人経営者は「会社は社員や会社を支えてくださっている人々のものだ」と考える。そうであれば、経営者にとって何よりも大切なのは、利益を増やすことではなく、できるだけ会社を長く存続させること。つまり社員にしっかり報酬が払えていて、赤字を出さずに会社が回っていれば問題ないという結論になる。
こうした経営手法をさらに後押ししたのが、メインバンク制や株式の持ち合いといった日本式金融システム。このシステムが主流だった時代、現代のような「資本コストを意識した経営」を強く求められる機会はほとんどなかったといっていい。
一方、欧米人経営者は、基本的に「会社は株主のものだ」と考える。
この思想が広まったのは、ハーバード大学経営大学院のマイケル・ジェンセン教授(1939-2024)が1970年代、「エージェンシー理論」を提唱したのがきっかけだ。
エージェンシー理論とは、株主を依頼人(プリンシパル)、経営者を代理人(エージェント)と位置づけ、経営者は市場規律の下で株主価値の最大化を目指すべきだとする理論。この学説は欧米企業の「コーポレートガバナンス」の進化に大きく貢献したといわれているが同時に、社員、顧客などの利益が犠牲となったり、金融の暴走を招いたりするなど、さまざまな弊害をもたらした。
近年、欧米ではこの行き過ぎた株主至上主義を見直そうとする動きも出てきている。つまり「もっと資本コストを意識せよ」と標榜されている日本とは逆の揺り戻しが起こっているのだ。こうした中、ハーバード大学経営大学院の授業でも公益を重視した渋沢栄一の合本主義や伊藤忠商事の企業理念「三方よし(売り手よし、買い手よし、世間よし)」が積極的に取り上げられている。
前出のワン教授が教える授業では、「皆さんがハーバード大学のエンダウメントファンド(寄付基金)の運用責任者だったら、日本市場に投資しますか」と必ず質問するそうだが、近年は、「投資したい」と考える学生が増えてきているのだという。
その要因は日本のコーポレートガバナンス改革は今後、もっと進展するだろうと期待されていることにある。
興味深いのが、日本企業の課題は逆に「伸びしろ」だととらえられていることだ。
「日本には素晴らしい製品があり、日本ブランドは高い評価を受けているのだから、内向き志向を改善し、戦略的にグローバル化を推進すれば、必ず成長できるはず」「M&Aなどによって事業を再編していけば、もっと利益を出せる体質に変われるはず」「社内に眠っている現金を効率的に成長セクターに投資していけば、もっと成長できるはず」といった意見をいう学生が多いのだという。
私たち日本人は、とかく外国から指摘される課題に対して懐疑的になってしまう。ガバナンス改革に抵抗するのも、改革しなければならない理由について、本当の意味で腹落ちしていないからだろう。
そんなとき、この「課題はポテンシャル」という考え方は、大きな力になるのではないか。「外圧でしかたなく」ではなく、「ここを変えればもっと成長できる」と考えれば、改革のスピードは自ずと加速する。日本企業が、内から生まれる前向きな力で、ガバナンス改革に取り組んでいけば、さらにその本領を発揮することができるだろう。
佐藤智恵Chie Sato
伊藤忠エネクス株式会社、株式会社ハピネット 社外取締役
1992年東京大学教養学部卒業。2001年コロンビア大学経営大学院修了(MBA)。NHK、ボストンコンサルティンググループなどを経て、2012年、作家・コンサルタントとして独立。著書、講演多数。2017年より日本ユニシス社外取締役、2024年より伊藤忠エネクス、ハピネット社外取締役。最新刊は『なぜハーバードは虎屋に学ぶのか』。