2026年6月10日
把田太郎(BNPパリバ銀行東京支店 副会長)
[ 雑誌「コーポレートガバナンス」Vol.21 - 2026年4月号 掲載 ]
日本のM&A市場は、この20年で量的拡大だけでなく、その「意味合い」そのものが大きく変化してきた。2000年代前半まで、M&Aは決して一般的な経営手法ではなく、経営危機時の救済や海外進出など特定の状況下でのみ選択される手段であった。とりわけ上場企業においては、外部資本の関与や事業売却、非公開化といった選択肢は、経営の失敗や追い込まれた末の決断として受け止められることも少なくなかった。
しかし現在、M&Aは企業価値・株主価値を高めるための前向きな経営判断として広く認識されている。その背景には、制度面の整備に加え、プライベートエクイティ(PE)の進化、アクティビスト活動の成熟、そして外部オーナーに対する企業・社会の意識変化が重なり合ってきたことがある。本稿では、これらを中心に、日本のM&Aを巡る20年間の変化の原動力を整理する。
制度面では、スチュワードシップ・コードやコーポレートガバナンス・コード、経産省の事業再編ガイドライン、東証のPBR1倍割れ問題提起などが、資本効率と企業価値向上を意識させる環境を整えた。これらはM&Aを義務付けるものではないが、現状維持に安住しない経営判断を促し、非連続なコーポレートアクションを検討する土壌となった。
より大きな変化が見られるのは、実際にM&Aを担うプレーヤーと、それを受け止める企業側の意識である。2000年代前半、日本におけるPEは「再生案件の担い手」であると同時に、「短期的利益を追求するハゲタカ」といった否定的なイメージを持たれることも多かった。2005年当時を振り返ると、PE業界で存在感を示していたのは、ユニゾン・キャピタルといった国内数社と一部外資に限られていた。
当時の象徴例として、産業再生機構によるダイエー支援やウォルマートによる西友買収がある。いずれも雇用維持・再生色の強い案件で、市場ではなお特殊事例と受け止められていた。また、2005年にアドバンテッジ・パートナーズが実施したポッカコーポレーションのMBOは、上場会社の非公開化として草分け的な案件であったが、株価水準や少数株主保護が大きな論点となることはほとんどなかった。
しかしその後、PEの役割は大きく変容した。資本提供にとどまらず、経営人材の派遣、ガバナンス改革、成長戦略の実行を通じて企業価値を高める存在として認識されるようになったのである。現在では、国内外のPEが規模・専門性の両面で進化し、成長投資型、業界再編型、非公開化型など多様な投資スタイルが定着している。
同時に、企業側の意識も変わった。経済産業省の事業再編ガイドラインが示すように、「自社が全ての事業のベストオーナーであるとは限らない」という認識が広がり、企業自らが企業価値向上を目的として事業売却を選択するケースが増えている。花王が飲料事業であるヘルシアをキリンに売却した事例や、セブン&アイ・ホールディングスがヨークホールディングスをベインキャピタルに売却した事例は、経営不振による撤退ではなく、資本と経営資源を再配分する前向きなM&Aである。
また、外資系企業やファンドに買収されることへの心理的抵抗感も、この20年で大きく低下した。高級化粧品ブランドであるタカミが、自社ブランドをさらに成長させるためにロレアル傘下に入った事例は、事業会社・ファンドを問わず、外資がベストオーナーとなり得るという考え方が日本企業に浸透してきたことを示している。
3つ目の原動力は、アクティビスト活動の変化である。2000年代半ば、株主提案を通じて経営に影響を及ぼそうとする投資家に対しては、企業側・市場双方に強い警戒感が存在していた。サッポロホールディングスが2006年にスティール・パートナーズから不動産売却を迫られた際、会社側がこれを退けることができたのは、当時の企業文化や世論がそれを許容していたからでもある。
しかし2026年現在、株主提案は珍しいものではなくなり、その一部は実際に可決されている。場合によっては取締役会が一掃されるケースも現れ、株主の意思が経営に直接反映される場面が増えている。サッポロホールディングスが3Dキャピタルからの働きかけもあり、最終的に恵比寿ガーデンプレイスを含めた不動産事業の売却を決断した事例は、約20年間で経営判断の前提が大きく変化したことを示している。
アクティビストの影響は、上場会社の非公開化の難易度にも変化をもたらしている。2005年のポッカコーポレーションのMBOでは、株価水準に関する議論は限定的であったが、近年では取締役会が株主価値最大化を強く意識しなければ、案件そのものが成立しないケースも出てきた。マンダムの非公開化では、オープンビッドの結果、KKRが高い価格を提示したことによりCVCが当初の一株1,960円から3,105円まで引き上げてTOBを行う展開となり、価格の妥当性が厳しく問われた。実務に携わる立場から見ても、この変化は不可逆である。企業側の理解のスピードも、この5年で劇的に上がった。かつては説明に時間を要した資本効率や企業価値の議論が、いまでは取締役会の前提として共有されるようになっている。これは、取締役会が形式的ではなく実質的に株主価値最大化を追求することを市場から求められていることを示している。
この20年間で、日本のM&Aのテーマは「再生」や「防衛」から、「企業価値・株主価値の最大化」へと大きくシフトした。今後の20年を展望すると、しばらくは、アクティビストによる継続的な問題提起と、プライベートエクイティのポートフォリオ企業や新規投資を核とした再編の動きが、市場の重要な推進力の1つとなるだろう。
一方で、あるアクティビストが指摘するように、「アクティビストの活況には時限性がある」との見方もある。全ての企業が株価向上に向けた取り組みを進め、一定水準以上で株式が取引されるようになれば、アクティビストが介入できる余地は次第に限定されていく可能性がある。重要なのはアクティビストの有無ではなく、企業が自律的に価値向上へ取り組み、M&Aを戦略的に使えるかである。M&Aは特別な手段ではなく、取締役会が当然に検討すべき経営ツールとなったのである。
把田太郎Taro Tabata
BNPパリバ銀行東京支店 副会長 投資銀行・法人金融統括本部長/BNPパリバ証券株式会社 投資銀行・法人金融統括本部長
慶應義塾大学経済学部卒業、ロンドン大学MBA。三和銀行を経て、2000年日興ソロモンスミスバーニー証券(現シティグループ証券)入社、常務執行役員を歴任。2022年BNPパリバ入社。小売・消費財セクターをはじめ幅広い分野で国内外の大型M&Aや資金調達案件を多数主導、投資銀行業務の第一線で活躍。