コラム:ガバナンスに選択肢は必要か?

2014/01/17

青山学院大学大学院 会計プロフェッション研究科 教授 町田祥弘

間もなく会社法が改正されようとしている。今般の改正案によれば、監査等委員会設置会社という新たな会社形態が設けられるという。わが国では、2002年の商法改正によって委員会(等)設置会社が導入されて以来、監査役会設置会社との選択制が認められてきたが、今後は、3つの会社形態からの選択制となるのである。

 わが国では、会社法に限らず、何かというと選択肢を用意して当事者に判断させることが望ましいことのように喧伝されるきらいがある。当事者の選択に委ねることは、本当に社会システムとして望ましいことなのだろうか。

 選択肢を与えれば、企業/経営者は広い意味でのコストを低減すべく選択を行い、それによって効率的な社会システムが実現できるという考え方にも一理ある。ただし、ここで問題なのは、事がガバナンスに関する事項だという点である。そもそも、ガバナンスという経営を規律付ける問題について、経営者の望むように選択肢を用意するというのもおかしな話である。

 ガバナンスの目的については、今日、企業を取り巻く多様なステークホルダーが存在することから、一概に論じるのは難しいともいわれることもあるが、少なくとも、長期所有の株主にとっての企業価値を維持・向上するために、企業経営に規律付けを行うものとして捉えれば、多様なステークホルダーの利害についても、一定の収斂を図ることができる。だとすれば、そうした観点で望ましい一定のガバナンス・システムを想定し、それを社会として企業/経営者に要請するのが本来のあり方であろう。

 もちろん、会社は、規模や業容において千差万別である。必要であれば、公開会社と非公開会社の別を設けることや、さらには上場市場の種類や企業規模による差異を設けることも必要かもしれない。しかしながら、わが国のように、大規模上場企業に対してもすべての会社形態の選択肢が開かれているというのは、かなり異例である。一見、選択肢が多くて素晴らしい制度のようでいて、何も決められない社会を表象しているかのようにさえ見える。

 過度なガバナンスによって企業活動を萎縮させてはならないが、必要最低限の規律を課すことは、決してそれと矛盾するものではない。ましてや企業/経営者の暴走を未然に防ぐことは、企業活動への過度な制約には当たらないであろう。仮に、実施に困難が伴う規制であるならば(たとえば、独立取締役の設置義務付け等については)、規制に時間軸を導入して、一定の期限を設けて導入を漸進的に進めるということもできる。

 そして、必要最低限のガバナンスを厳格に義務付けた後は、企業の自由を認めるべく、不要な規制を廃止ないし緩和すればよい。寧ろ、そうした自由度を確保するための前提となるベース・ラインとして、ガバナンス規制は設けられるものなのである。

 この文脈は、私の研究の関心の1つでもある内部統制の制度の問題とも深く関連している。
たとえば、現在の内部統制報告制度は、自社で十分に内部統制を構築しているような企業にとっては、かなりの程度、作業が形骸化して、法制度に対応するためだけに実施している感さえあるのに対して、中小規模企業の中には、未だに過重な作業負担を訴えるところもある。

 一方で、グローバルに活動する企業では、アメリカの海外不正支払防止法(FCPA)等の適用の厳格化を受けて、海外子会社等の内部統制の再構築に追われている。自国の制度への対応が形骸化してしまっていて、海外の制度への対応に追われるといった事態は、まさに本末転倒であろう。

 そもそも企業は、規制があるから内部統制の構築を図るのではない。企業には、あるいは、広く一定規模以上の組織には、内部統制は必然的に求められるものなのである。経営者が、個々の従業員の行動や個々の部署の活動のすべて把握することができない以上、経営者自身の代わりになってそれらをモニタリングする仕組みとして導入されるのが内部統制である。

 したがって、内部統制を法律で義務付けることについては議論の余地がある。内部統制に関する法制度や規制については、あくまでも政策的な観点から、ガバナンスの一環として、企業に対する一定の規律付けを求めているものと解すべきである。言い換えれば、内部統制にかかる各種の制度は、企業の自由な活動を認める前提となる基礎的な枠組みとして位置づけられるものである。

 私は、内部統制を制度として義務付けるのであれば、最低限求められるべき部分を義務付け、それ以外は企業の自由に任せること、ただし、モラル・ハザードが生じないように、義務付けたものを履行している企業にはそうでない企業に比して、一定の措置を講じることが肝要と考えている。

 いずれにしても、わが国は、社会として、いかなるガバナンス、さらにはその一環としていかなる内部統制を望ましいものとして想定し、いかなる程度の規律付けを求めるのかを再検討し、制度化する必要があるであろう。そこには、選択肢という名の"ゆとり"は必要ないのではなかろうか。