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コラム:企業の人倫的ガバナンスのすすめ

2010/05/10

元早稲田大学商学部教授 小林俊治氏

 今日の日本の企業社会は、企業倫理を重視する企業人と企業倫理を軽視する企業人とに分けられる。一方では、純粋に企業倫理の進歩のために努力している企業人も少なからずおり、またビジネスと社会改革とを結び付けるという社会企業家のような利他主義的な人たちも出現してきている。だが、他方では、自己の栄達や金儲けのためには、手段を選ばない企業人も依然として多い。

 そして、すこしでも利益追求の手綱を緩めると、国際競争に負けてしまうという「脅し文句」が声高に言われる。その結果、企業が栄え、まじめではあるけれど、特別の才能のない社員の給与や労働時間などが悪化するという状況が生じる。また、家庭では、親殺しや子殺しが頻発している。こうした日本の不安な社会状況は、共同印刷争議などの労働争議が多発し、「黄金王」安田善次郎のテロ事件が起きた関東大震災(1923年、大正12年)前後から昭和12,年ごろの時代と似ているといえる。

 それでは、いかにして、だれにとっても働くに値する企業を創っていくか。またいかにして、投資家が投資するに値する企業ガバナンスを構築していくべきか。

 そこで、きわめて参考になるのは、1960年(昭和35年)に死去した哲学者、和辻哲郎の人倫的経済組織論である。孟子(朋友信アリなどの五倫)やヘーゲルなどにより主張された「人倫」(Sittlichkeit)とは、要約すれば、人と人とのあるべき関係であり、人間は人と人との関係においてはじめて本来の人間になるということである。(倫には「ことわり」とか朋、仲間の意味がある。)すなわち、和辻の有名な人間を間柄的存在としてのとらえる人間観である。したがって、人倫とは、主観的な個人と関わるところの単なる倫理とか道徳とは区別されるべき概念である。

 この和辻の共同体志向の思想は、もともと日本の国家としての特質を解明しようとしたものであるが、戦前・戦後にわたって刊行された『倫理学』(1937年、昭和12年--昭和24年、最新版は岩波文庫で入手可能)のなかで主張されており、平たく言えば、個の自律も大事であるが、個の自律のあとには、その個を否定して、より高く位置する共同体、最終的には国家への貢献が大事であるというものである。(なお、和辻のこの国家思想は、戦後には超国家主義を煽ったと批判されたが、戦後版では、国家は、国家をこえた国際社会、人倫的な世界的国家の一員であるべきことの重要性が付け加えられた。)

 和辻は、めざすべき人倫的組織としての国家は、まず「家族」から構成され、それが「親族」、「地縁共同体」へと広がり、さらには「経済的組織」、「文化共同体」、「民族」そして最後には「国家」にいたるのである。また経済行為と人倫との関係は、次のように説明される。すなわち、労働者が他の欲望充足物を買うために、自らの労働を商品として売り、雇い主はそれを商品として買う。しかし、そのような非人倫的関係がある一方で、「それによってこの労働者が女房子のために働いているという事実は消滅しはしない。彼は欲望充足を媒介として家族という人倫の実現を目ざしている」と解釈されるのである。

 和辻は、また、「財が人々を結びつけるのは、人間の労働を凝結せしめるものとして、どこにおいてもその労働に相当するだけの奉仕をなしえるからである」と主張する。たとえば、ポストコロニアル(植民地主義以後)の現代では、アフリカの人々と日本人は、双方の意思により、財を媒介として人倫的関係をもてるのである。最近における、コーヒーのフェア・トレードなどもその例であろう。

 日本の取締役会にも、人種・国籍を問わず他者を尊重する人倫的価値観が必要である。そして「打算社会の根本態度は万人の万人における無限の不信頼である」から、取締役会が損益計算書のみを重視する打算的ボードであってはならない。

 結局、企業のガバナンスとは、企業の責任者自身が欲望人(ヘーゲル)や経済人から脱皮し、和辻の幅広い知識などを重視した大正教養主義から生まれた人倫的立場に立って、利他主義的決定を下し、それが実施されているかをチェックし、実施されていなければ、電光石火のスピードで実行させることにつきる。そういえば、最近、大学でも、国際教養学部の開設などというように、再び「教養」を重視しはじめ、大型書店では「教養書コーナー」を設けているところもある。これも企業を取り巻く環境の変化のひとつである。